老紳士

私は今、囲われている。



月に1回の約束を守れば30万を振り込んでくれる
老紳士と出会った。



その老紳士はどことなく、本当の父に似ている。
幼い頃の記憶は曖昧で、はっきりとどこが似ているとは
言えないが、その人といると泣いたり笑ったりが自然にできる。




義父が死んで、簡単な、本当に簡単な葬式を姉と私でした。
通夜はなく、ただ、焼き場へ同行しただけと言ってもいい。
義父は親戚もなく、天外孤独だったのだ。




私は、新しく働き始めたクラブで、無気力に、
そして真面目に働いた。
店の人間に言われたことを守り、言われたことをこなし、
言われたように動いた。


ただニコニコと笑い、
話を合わせ、お客を笑わせ、ご機嫌をとった。




そんな時、その人に会った。



白髪混じりの頭髪に、不ぞろいな口ひげ、少し血色の悪い
黄ばんだ肌に、静かな笑み、Yシャツにベージュのズボン、
他のお客のようにホステスに色気を要求しない、無口な人だった。



私は、その人の担当の女の子のヘルプで席についた。
別段、気にいられた様子もなく、私はひたすらその人の水割りを
作っていた。


担当の女の子が、他の席に立っている隙に、
その人は水割りの置かれたコースターを裏返し、
胸元から出したボールペンで携帯番号を書き、私に渡した。


私は、その日、仕事が上がると、すぐ、その番号に電話した。
その人は「かけてくれてありがとう」と言って、黙った。
私は、どうして番号を教えてくれたのかと聞いた。
その人は、プライベートで会いたいからと答えた。



その日から、月に1度のデートをして、
肉体関係を結ぶことなく、ただデートの終わりに
「愛してるか?」と聞かれて「はい」と答えるだけで
翌日30万が私の口座に振り込まれることとなった。




私が過去にしてきたこと、義父にレイプされたこと、
家を出て、大学へ行き、卒業して、OLをして、
妊娠した姉が突然転がり込んできて、OLを辞めて
ソープランドで働き出したら、姉は子どもの父親と結婚して出て行き、
私は不毛な恋愛や不毛な人間関係を繰り返し、売春までしていた事など、
全てを話した。


老紳士は、私の身の上を聞き、感情移入して涙することもなく、
私をじっと見ていた。

私は、安らいでいた。
でも、自分を語れば語るほど、自分自身がバカらしくもなった。


いろいろ大変な事があって、だから、どうしたというのだろう。


その人は、自分の事を語らないが、私を見て驚きもしない。



私は、その人を父親のように慕い、
その人も私を娘のように大切にしてくれた。




ある時、その人はいつものデートの終わりに、
いつもは「愛してるか?」と聞くのに、
「一緒に死のうか?」と言った。
私は「はい」と答えた。



老紳士は初めて私に涙を見せた。
私も、その人の前で初めて泣いた。
手を取り合って、喫茶店で泣いた。


それからもずっと、月に一度デートをし、
「愛してるか?」「はい」と言葉を交わし、
素性も分からないその人は、お金を振り込んでくれている。

強さ

ai32007-05-11

人間は強い。
もう、歩けない、もう生きていたくない、
もう、無理、もう、何もしたくない、
もう、誰にも会いたくない、
もう、死にたい、と強く願い、
弱弱しい自分を撫でて、自己愛を高めても、
再び歩き出し、死んだりせずに、何かをしていて、
どこかの誰かと関わり、結局生きてしまう。



私は、夜の仕事をはじめた。
以前やったような、体を使う方ではなくて、お酒の相手をする方の、夜だ。



会社の帰りに立ち寄った駅前の本屋で、人相の悪い男に呼び止められた。
その男は、名刺を差し出し、うちの店で働かないかと、
近くの喫茶店で話し始めた。
私は、男が語る店というものの内容や、男自身の身の上話などを
聞くともなく聞いていた。
要するに、キャッチなんだなと気づいた頃には、男は笑顔で席を立ち、
連絡待ってますと告げて二人分のコーヒーの伝票を持っていた。


部屋へ帰ると、義父はいなかった。
私が渡した小遣いでまた飲みに出かけているのだろうと思った。
義父の汚した床や服や日用品を片付け、風呂に入り、
髪を拭きながらテレビを見ていた。


30分ほどして、酒の臭気を連れて義父は帰ってきた。
いつになく上機嫌だった。
義父は今しがた、飲み屋で一人で飲んでいた40代の女を
こまして抱いてきたんだと自慢げに話した。
女は意外に素直にホテルまでついてきたという。
きっとその人は、何か嫌なことがあったか、強烈に寂しかったに違いない。
そうでなかったら、こんな下品な欲望が服を着て歩いているような男と
二時間の休憩をとろうと思うはずがない。



義父は、冷蔵庫を開けて私が買っておいたビールを飲みながら、
私の風呂上りの体を眺め、やはり40代と20代では肌が違うなとニヤニヤした。
私は、お義父さんの若い頃はどんなだったのと優しく聞いた。
義父は、興味あるか?と真顔で聞き返した。
私は、義父の真剣な顔に浮かぶ、しわの数を数えていた。



若い頃は、チンピラで、ゆすりやたかりをしていたが、
お前の母親と出会ってからは楽になった。
あいつはよく稼いだし、実家に住んでたからな、と、まるで、
初恋の想い出を語るように、義父は私の大切な母親像を壊し始めた。

私は、その話は又今度聞くから、今日は寝るといって隣の部屋へ移った。




夜中、義父は私の隣へ入ってきた。
私は身構え、今日他の女を抱いてきたばかりなのに、まだするかと
半ばあきれながら、義父の酒臭い体を跳ね除けようとした。
しかし、強い腕の力に押さえつけられ、動けなかった。
あきらめて脱力する私の胸元で、義父は泣いていた。


「お前は俺の子じゃない」


何を今更当たり前の事を言っているのだろうと混乱した。
抱くなら抱くでさっさとすませろと思っていると、
義父は、予想に反して何もしてこなかった。


ただ、子どものように泣きじゃくっていた。
「あいつは俺以外の男を知ってた。俺はあいつだけだった」

義父は私にしがみつき、震えていた。



寂しかったのは、飲み屋からホテルに連れ込まれた女の人ではなく
義父の方だったのだ。



でも、どんなに寂しくても、惚れた女が他の男を知っていたのが悔しくても、
義理の娘を抱いていい道理はない。私の少女時代を奪ったこの男に、
私は同情してはいけないのだ。
それでも、私は義父を突き放すことができなかった。
まるで母親のように、義父の涙を受けとめ、頭こそ撫でなかったが、
させるがままにしていた。



自分で、自分を抱きしめて、受けとめて、撫でてやる強さが義父にあれば
母や姉が殴られずにすみ、私は傷つかずにすんだのに、と思うと、
義父の弱さが憎かった。



そして、させるがままになっている自分自身の弱さが憎らしかった。




朝起きると、義父はいなかった。
私は、特に気にせず、会社に「辞めます」と連絡して、
お昼までダラダラと過ごし、簡単な昼食をすませ、
駅前の喫茶店でもらった名刺に載っている携帯電話の番号に電話した。




それから、数日後、義父が自殺したことが分かった。